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仮面ライダーゴーストについて総評

仮面ライダーゴーストが昨日最終回を迎えました。
来週も特別編があるみたいですが「本編はこれで終わった」という事で。

だいぶゴチャゴチャした内容でしたが、自分なりの解釈・評価をして情報の整理をしたいと思います。


まず、個人的な評価を言えばゴーストは
「局所的には要所要所で爆発的盛り上がりを見せたが、全体を俯瞰すれば駄作」といった所です。
ただそれは「設定に不整合や矛盾の類が多いから」という理由ではありません。

実際のところ過去の戦隊・ライダーにおいても
1年も放送していれば細かい部分での設定の不整合や矛盾はいくつもあり、
それらは番組が盛り上がってさえいれば「制作の都合で変えたのだろう」
と好意的に解釈して気にせずに視聴を続けられます。
ゴーストは不整合の度合いが例年より多めですが、
それでも正しく盛り上げられていれば気にせずにいられたであろうと思っています。

それでは私がゴーストを駄作を思った根拠は何かというと、
それは「主人公の天空寺タケルが眼魔に近い怪物的な性質を持つに至った」という点です。


タケルが「仮面ライダーゴースト」になった理由や最初の大目的は、
眼魔に襲われて一度死亡するが魂が残り、生き返るために戦うというものです。
その後も劇中で死亡と復活を繰り返し、いわば死を超越した存在になっています。
一方、ゴーストの敵である眼魔は不死の存在であり、倒されても容易に復活する事ができます。
眼魔が不死である事は物語上意味があり、眼魔世界の長が家族を失った悲しみから不死の者達で世界を作る事を願った事が発端です。

で、ここで一つの疑問に当たります。
では、タケルの不死性や蘇りへの願いと、眼魔達のそれは本質的に何が違うのか? と。

この疑問について劇中でやり取りはされませんでした。
タケルが眼魔(主に後半指導者となったアデル)に対して非難するのは、
自分の父を手にかけた事の非道さや、理想郷であると言いながら裏で犠牲者を出していたという事であり、
「不死で永遠に生き続ける事は自然の摂理に反するのではないか?」というような問答はされませんでした。
これはタケル自身が一度死んだはずなのに生き返る事を目指しているので
不死を不自然な状態であるという方向に持って行く事が出来なかったのだと思います。

この作品では話のテーマとして「命を繋ぐ」というフレーズが度々使われています。
通常であればこれは「誰かが死んだとしてもその想いや志は受け継がれていく」
という意味は持つのですが、ゴーストの場合は肝心のタケルが死ぬ事を拒否しているため意味合いが異なってきます。
最終回において、多くの魂と繋がった結果人間を超越した存在になりつつあるという事が明かされました。
(何度か死んでも復活しているので、超越というのは死も超越していて、眼魔に近い存在であると言って差し支えないかと思います)
また、物語の後半から最終回手前まで宿敵と描かれていたアデルですが、
彼も多くの人間の魂と繋がって一つになる事を計画して動いていました。
本人が意図しているか意図せずにこうなったかという点を除けば、
この両者に果たしてどれほどの違いがあるというと……私には本質的な違いはないとしか思えませんでした。

上述のようにタケルは眼魔に近い怪物的な性質を持っているのですが、この事は劇中では踏み込まれて描かれていません。
(私は無意識にタケルのヒーロー性を守ろうとした結果だと思っています)
一度死んだのに生き返るという事は死生観としてどうなのか。それで生き返る事は眼魔とどう違うのか。
善悪の問答においてもそういった所をずっと避け続けてきました。
「親子の絆」や「人の心」など、非常に表層的な徳の話に終始していたのって
タケルの背負っている死生観が歪すぎてそれしか出来なかったという理由もあるのではと思っています。

ところでそういう風に「人の心」というのを繰り返し説いていたゴーストですが、
最終話手前(48話)のエピソードは個人的にどうしても受け入れられなかったです。
この回では一度アデルとアラン&アリアが和解し、家族でやり直す事を決意した直後にガンマイザーにアデルが乗っ取られます。
操られたアデルはタケルに自分を倒せを訴え、タケルもその通りにアデルを倒す事になります。
私がどうしても認められないのはこの流れの部分で、
一度和解してやり直す事を決めたのに、結局その直後に倒してしまった。
尺の問題であるかもしれませんが、当事者であるアランに気持ちを確かめないまま兄を倒すのはヒーローとしてどうなのか。
また、そうやってアデルが死んで放心状態になっているアランがすぐ近くにいるのに、
「タケルは生き返らなきゃね」と言ってのけるアカリもちょっと人の心の機微に疎すぎやしないか。
「人の心」を説いておきながら(前述の通り他の説教が出来なかったんだと思いますが)、
この無神経さ極まる演出や台詞回しは一体なんなんだろうかと。
この一件がなければ駄目な作品だとは思いつつもどう駄目なのか
わざわざ分解して記事にする事もなかっただろうというくらいには憤りを感じた回でした。

ゴーストは最初は英雄(偉人)の眼魂を集めて戦う事をプロモーションで強調していました。
人間の偉人とは何かと言うと、歴史に名が残るほどの突出した個人。
一方で眼魔は「個」を否定して全体で運用する社会です。
つまり最初は人間の「個」と全体性を対立軸にして話を広げる計画だったのではないかと今では思います。
しかしその対立軸が形成されず、かと言って死生観の面ではタケルがあまりに歪んで眼魔に近い存在になってしまい、
善悪の対立軸がいつまでも存在しない……どころか、本質的には怪物とほぼ同じで善悪の区別がつきにくくなった、
という事がゴーストの一番の失敗であり、これに手を入れなかった事こそ迷走の原因ではないかと思います。

ただ、極端な事を言えば「悪いのは脚本と設定だけ」な作品でもあったと思います。
脚本が迷走し、主人公が怪物に近い性質を持ってしまいましたが、
それ以外のセクションの方々は腐らずに熱量を保ち続けていたかと思います。
役者も熱演されたシーンが多く印象に残っているし、撮影の画面作りも決して手抜きややる気がなくなった風ではありませんでした。
アデル化は悪ノリが過ぎた面もありますが、あのモーフィング技術はいずれちゃんとした形での再利用を願ってなりません。


ところで余談ですが、仮面ライダーウィザード以降のライダーでは毎回、
物語の終盤にヒーローとしてどうしても受け入れられない展開が起こって
「これは駄目だ」と思って何かしら記事にまとめています。
もういい加減「終盤がフォローできない程ひどい」というような事を言わずに済ませたいんですが……

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