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ガルガンティアのロボットアニメとしての生存戦略

前回のガルガンティア10話にて
「人類の種としての生存戦略」の話が出たので、それに絡めて思う所を。
察しがいい人はこのタイトルだけで何を言いたいか分かってしまうかもしれない。

タイトルでガルガンティアの事をロボットアニメと呼んでいますが、
そもそもロボットアニメにカテゴライズしてよいかという事さえ疑問視する人が多いのが現状です。

ではロボットアニメとはどういう物か、と考えると、
最終的にはロボットの派手なアクションによるカタルシスの表現を目的とした物、に行き着くのではないかと思います。
ロボットを題材としたアニメの諸作品は色々と形を変えてはいるものの、
作品の華はアクションにあるというのが大体のケースで暗黙の了解かと思います。

この仮定に立つと、ガルガンティアは確かにロボットアニメには当てはまりません。
その最大の理由は「戦闘を通してのカタルシス」を得られる構造になっていない事です。
強敵だったり難題だったりしてロボットアニメらしい「敵」が設定されていたのは
1話と3話くらいで、後は戦闘はそれを通して苦悩を深めるための装置になっていました。
それが分かりやすく現れているのが7話以降のクジライカの話で、
さして苦戦はしないが戦った後に後味の悪い展開が待っていたという流れになっています。


それでは、ロボットで戦闘によるカタルシスを描かずに何を描こうとしているのかというと、
チェインバーの役割を端的に示す単語があります。それが「啓発」です。

チェインバーは戦闘における圧倒的な強さもさる事ながら、
その「機械の知性」の部分においてはAIとして特殊な描かれ方をしています。
思考のパターンは合理性一辺倒なのだけれど、一つの事象に固執はせずに
合理的に説明がつく事であれば新しい事象も組み込んでいる。
また、操縦者であるレドに反逆する事はないが、
盲目的に従うわけでもなく、必要であれば都合の悪い事も提言する立場をとっている。

古典的なSFでは人工知能が暴走して人間に危害を加えるようになる、という話がよくありますが、
この場合は機械の知性と人間の知性の決戦という文脈に組み込まれてしまいます。
この手のテーマの作品では大抵強調される「機械的思考であるがゆえの頑迷さ、愚かさ」
がかなり弱められています。

機械に高い知性を持たせて、単に使役される道具でもなく、
なおかつそれが人間に好意的(反逆しない)である場合、
人間とロボットがどのような関係になるのか考えた結果チェインバーが生まれたのではないかと。

ロボットアニメにおいては登場人物が命をかけた派手な戦いが華ではあるのですが、
それを実現するには舞台設定や登場人物、脚本を逆算して組み立てる必要があり、どうしても縛りがきつくなります。
劇中のフレーズを使わせてもらえば、戦闘や戦闘によるカタルシスを克服する事を目指しており、
その戦闘にとって代わるものとして「人間を啓発し、導く機械の知性」を生存戦略として選択したのではないかと。


余談ですが、同じようにロボットで戦闘を意識的に排した作品として、
最近のもので私は「輪廻のラグランジェ」を思い出します。

こちらは最初から主人公達が圧倒的な力の機体を持っており、
それで敵を倒すのではなくて力の封印と和平を軸としていました。

私が観測できる情報を見る限りラグランジェは商業的に成功したとは言えないと思っていますが、
制作の意図の一つにロボットアニメで戦闘を軸にしない方法の模索があったのではないかと考えています。

この両プロジェクトに共通で関わっているものとして、
Production I.Gやそこに所属している平澤直プロデューサーがいます。
そうすると、Production I.Gや、あるいは平澤Pが
今後のロボットアニメの可能性をバトル以外にかけており、
ガルガンティアにもその考えが反映されているのではないかと考えたりする次第です。

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